超新星ニュートリノは全世界60億の人間に降り注いだ。それを見る装置を作って待っていたのは誰だ!~小柴昌俊【科学者の智慧 vol.12】

%e5%90%8d%e7%a7%b0%e6%9c%aa%e8%a8%ad%e5%ae%9a

出典:ウィキメディア・コモンズ

 

「カミオカンデ」を発案 設計指導・監督

小柴昌俊……1926ー。愛知県出身の物理学者・天文学者。1987年、自ら発案したカミオカンデによってニュートリノの観測に世界で初めて成功。2002年にノーベル物理学賞を受賞。東京大学名誉教授。

 

自分で何とかしなきゃ・・・

小柴昌俊博士は厳格な軍人の息子として誕生した。3歳で母を亡くし、小学生時代に父が満洲へ赴任。それ以降は伯父の家に預けられた。

そして13歳のある朝、突然小児麻痺を発症して両手足の自由を失う。

 

小柴博士の世話をしていたお手伝いさんは20歳の女性。中学1年生の昌俊少年にとって、トイレや風呂の世話を彼女に頼むことは「死ぬほど……」恥ずかしく、彼は不自由な手足で二階の自分の部屋から梯子段を必死に上り下りした。

学校にはバスで通っていたが、足があがらないのでバスのタラップが昇れない。しかたなく歩いて学校に通った。片道4kmを歩くのに2時間かかったという。

そんな死に物狂いのリハビリ生活のおかげで両足と左腕はだいたい普通に使えるようになった。

「もし母が生きていれば、きっと僕の世話を焼いてくれただろう。そして僕は両手両足が今も萎えたまま車いすの生活をしていただろう。甘えられる人がいないから自分でなんとかしなきゃと思った」。

小柴氏は著書のなかで当時をそう述懐している。

 

「やれば、できる」。不屈の精神、反骨の気質

小柴氏は旧制第一高等学校に進学した。この学校は「帝国大学の予科(東大に進学することが前提)」と位置付けられていたが、小柴氏の成績は芳しくなく、教師からは落ちこぼれ扱いされていた。

ある教師が「小柴はたとえ東大に進学できても、せいぜい(競争率の低い)インド哲学科ぐらいのものだろう」と陰口を言っていたのを知り、「こんちくしょう!」と一念発起して猛勉強を始める。

そして東大のなかでも特に難関とされていた東大物理学科にみごと合格した。

東大物理学科でも成績は悪かったが、アメリカのロチェスター大学へ留学すると同学の最短記録にあたる1年8ヵ月で博士号を取得した。

これは「博士号を取得して博士研究員になれば給料がもらえる」と聞いたからだ。学資に困窮していた小柴氏にとって、博士研究員になれるかどうかは命がけの問題だった。

「やれば、できる」。

これは小柴氏の生涯の口癖だったが、逆境に直面するたびに「こんちくしょう!」と力を発揮する不屈の精神、反骨の気質は少年時代から「自分でなんとかしなきゃ」との思いに駆られてきた経験に育まれたのかもしれない。

 

 後追いの実験に国民の血税を使えない!

内閣官房内閣広報室 2003年8月27日、東京大学宇宙線研究所神岡宇宙素粒子研究施設にて内閣総理大臣小泉純一郎(右端)らと

「カミオカンデ」という実験装置がある。宇宙から降り注ぐニュートリノを観測するための実験装置で、神岡の地下1000mの深さに設置された3000トンの超純水タンクと1000本の光電子倍増管からなる。

カミオカンデは東京大学理学部物理学科の助教授になった小柴氏が発案したもので、約4億円の予算を獲得して設計を指導・監督した。

しかし、ある日小柴氏のもとにアメリカから「研究ライバルチームがカミオカンデと同様の、しかしはるかに規模の大きい実験を準備中」との知らせが入る。ライバルチームの予算はカミオカンデの約10倍。

小柴氏は「これではアメリカに負ける。後追いの実験に国民の血税を使えない」と悩んだ。

しかし、ここでも小柴氏はおおいに反骨精神を発揮する。

「やれば、できる」

「逃げ出すのは僕の趣味に合わない」

「違う戦い方を考えよう」

小柴氏は知恵を絞り、ついに「光電子倍増管を大型化し、検出器の感度を強烈に高める」という方法を考えついた。

カミオカンデで使用する光電子増倍管の口径は5インチの予定だったが、20インチの光電子増倍管を新開発し、精度においてアメリカの実験装置をはるかに上回ることに成功した。

 

夢の卵を抱いて生きよう

さて、カミオカンデの目的はニュートリノの観測によって大統一理論の予言する陽子崩壊を実証することだったが、結果として目的は達成できなかった。しかし大マゼラン星雲でおきた超新星爆発で生じたニュートリノを(偶然ではあったが)世界で初めて検出することに成功した。

11

出典:ウィキメディア・コモンズ

この功績で、小柴氏はノーベル物理学賞を受賞する。ニュートリノの検出は小柴氏が東大を退官するわずか1ヶ月前のことだった。

やっかみもあってか、周囲からは「なんて運のいい人だ!」という声が相次いだ。

しかし、あまりに「幸運、幸運」と言われ続けると、小柴氏の反骨の虫が騒ぐ。

「確かに運もよかったかもしれないが、あの超新星ニュートリノは全世界60億の人間全部に降り注いだんだぞ! それを見られる装置をつくって待ってたのは誰なんだ!!」

小柴氏はそう言い返したという。

カミオカンデは後継のスーパーカミオカンデが稼働した1996年に役割を終え、小柴氏は後進の指導にあたっている。弟子の梶田隆章氏も2015年にノーベル物理学賞を受賞した。

そして2026年の稼働を目指し、スーパーカミオカンデの後継装置「ハイパーカミオカンデ」が開発中だ。

「今はかなわなくても、いつかは実らせたい夢の卵をいつも抱いて、夢をもって生きよう」。

90歳を超えた今も小柴氏はそういう。不屈の精神、反骨の気質は永遠に衰えを知らない。

 

【参考】

※ 小柴昌俊(2014)『ニュートリノと私』(PHP研究所)

※ 科学系ノーベル賞日本人受賞者9人の偉業

※ ノーベル賞日本人受賞者9人の偉業【小柴 昌俊】 – 国立科学博物館

※ 小柴昌俊 – 代表的な卒業生 – 東京大学 大学院理学系研究科・理学部