「科学は死骸の山の上に築かれた殿堂、血の河の畔に咲いた花園」~寺田寅彦【科学者の智慧 vol.13】

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出典:ウィキメディア・コモンズ

 

 

「寺田物理学」の創始者

寺田寅彦……1878ー1935。東京都出身の物理学者・自然科学者。夏目漱石と親交が深く、随筆家、俳人としても名高い。東京帝国大理科大学教授時代に関東大震災調査を行い、理化学研究所研究員や東京帝国大学地震研究所所員を兼務した。

「あれ、寺田寅彦って随筆家じゃなかったっけ?」

そう思った人も多いかもしれない。

寺田寅彦は第五高等学校(熊本)時代の英語の恩師だった夏目漱石の縁で正岡子規に俳句を学び、上京後は『ホトトギス』の俳人としても活躍した。また科学者らしい発想の飛躍と知見の広さ、卓越した洞察力などを駆使した文章で、明治期を代表する名随筆家のひとりに名を連ねる。

しかしその一方、物理学者としての寺田氏は東京帝国大理科大学実験物理学科を首席で卒業した秀才中の秀才だ。卒業後は東京帝国大理科大学講師になり、4年後には「尺八の音響学的研究」というユニークな研究で理学博士号を取得している。

その翌年東京帝国大理科大学助教授に就任するや、すぐに地球物理学研究のためベルリン大学に留学して地球物理学を研究。帰国後は農商務省から海洋学研究を嘱託される。

1913年からは研究の主軸をX線結晶学に移した。

X線結晶学といえば、ドイツの物理学者マックス・フォン・ラウエ(ノーベル物理学賞受賞)が基礎をつくった当時最先端の学問だった。

理化学研究所で見つかった実験記録によれば、寺田寅彦と弟子の西川正治が行っていた研究は、手近にある装置や材料を使いながらも世界の最高水準に到達しており、Nature誌に発表した「X線と結晶」という論文はラウエにも感銘を与えたという。

寺田氏はこの功績で1916年に東京帝国大理科大学教授に就任した。

 

万能の天才

こういう経歴を見ると「大した科学者だったようだが、寺田寅彦はいったい何の専門家だったのだろう?」という疑問が頭をよぎる。

地球物理学、海洋物理学、X線結晶学。何が専門なのかまったく見当がつかない。

学士号をとった『尺八の音響学的研究』をはじめ『椿の花の運動(椿の花の落下する様子を調べた論文)』、なかには、金平糖をつくるときにどうして角ができるのかを真面目に研究した論文もある。

寺田寅彦の研究分野は非常に幅が広く、当時の物理学の大半のジャンルを横断していた。特定のジャンルに専門を当てはめることができないため、これらを総称して「寺田物理学」と呼ぶ。

当然、周囲の学者からは「あまりにあれこれやり過ぎだ。なにかひとつに絞るべきだ」という指摘を受けることになる。だが寺田氏の考え方はおよそ次のようなものだったようだ。

「近代科学は領域を細分化し研究者の守備範囲を区切り、各研究者に対象を深く掘り下げることにより発展するという特徴をもっている。寅彦の目にはそのようにして切り刻まれた対象にどれほどの生命が宿っているのか、全体を見渡すことこそが重要であるのに、その生命を寸断し、統一性を崩壊させてしまう近代科学そのものに対する批判があったのではないかと思われる」(早稲田大学理工学術院教授 寺田泰比古)

寺田氏が55歳のときに書いた『科学者とあたま』という随筆がある。寺田氏は57歳で亡くなっているから、これは晩年に書かれた随筆だ。

その一部を抜粋要約すると次のようになる。

「科学者になるには頭がよくなくてはならない。

しかしその一方、科学者は頭が悪くなくてはならない。科学者はもっとも物わかりの悪い、呑み込みの悪い人であるべきだ。

頭のいい人なら『ダメに決まっている』とはじめから試しもしないようなことを一生懸命試みる。そして、それが『どうやってもダメだ』とわかる頃には何か別の糸口を見つけている。その糸口は、はじめからダメだと決めつけた人には決して手に触れる機会がない。

失敗をこわがる人は科学者にはなれない。科学もやはり頭の悪い命知らずの死骸の山の上に築かれた殿堂であり、血の川のほとりに咲いた花園である。

人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分を投げ出し、そうしてただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟があって、初めて科学者になれるのである」

原子物理学が全盛だった時代に地球物理学ほか非主流の物理学に身を投じた寺田氏は、学者としての名声は随筆家としてのそれに比べて決して高いとはいえない。「寺田物理学は趣味的だ。手を広げ過ぎて掘り下げが浅い」とする批判もある。

しかし上のような随筆を読むと、寺田氏の科学にかける情熱の強さや深さは趣味的どころか尋常なものではなかったことがよくわかる。

寺田氏は趣味的に学問の幅を広げたのではなく、現代の科学者が陥りがちな「狭い分野のなかでめぼしい業績をあげることばかりに執着する」姿勢をいさめるため、科学者の本来の姿勢であるべき物理的現象の探究(たとえばなぜ雲は白いのか、といった素朴な疑問への取り組み)に命を捧げる自分の姿を学生たちに見せたかったのではないか。

目先の名声や経済的成功を追わず、ひとつの物理的現象から研究を縦横無尽に展開する。

そのスタイルを受け継いだ弟子のなかには人工雪の製作に世界で初めて成功した中谷宇吉郎、日本の重力分布図を作成した地球物理学者の坪井忠二、宇宙線観測所の初代所長を務めた平田森三らがいる。そして彼らの弟子や教え子のなかにも「寺田物理学」を継いだ多くの研究者がいるはずだ。

随筆家として・科学者としての評価のほかに、寺田寅彦はもっと教育者として現代こそもっとも再評価されるべき人物ではないかと思う。

 

【参考】

 

※ 世界結晶年 寺田寅彦らに光 X線回折先駆的実験 理研で資料発見 : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

早稲田大学 先進理工学部 科学・生命科学科 分子生物学研究室(寺田泰比古研究室)