肥後の五郎鎌倉へ行く、今に語り継がれる「蒙古襲来絵詞」の背景

貧乏御家人の奮闘

侍

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竹崎季長は存命中、“五郎”という名で呼ばれていた。

「肥後竹崎の御家人の五郎殿は、何とも豪快なお人じゃ。蒙古との戦で手柄を立て、幕府からの恩賞をもらいに鎌倉へ出かけているそうじゃ。」

この言葉が何を意味するか、お分かりだろうか?

詳細は明らかではないが、季長には上に複数人の兄がいた可能性があるということだ。鎌倉時代、土地財産の相続はすべての子息の間で平等に分けられていた。相続権のある子が3人いたら、当主の死後その家が所有する土地は3等分する、というように。

だがそれを続けていくと、土地は零細化する。だから鎌倉時代の北条執権政治は長く続かなかった。

季長は同族内の土地争いに負け、没落した御家人と言われている。その所領は非常に小さかったか、あるいは兄の家を間借りしていたとも考えられている。早い話が“穀潰し”だ。

「だからこそ、五郎殿は蒙古との戦で手柄を立てなくてはならなかったのじゃ。だが、待てど暮らせど幕府からの恩賞の沙汰はない。怒った五郎殿は、鎌倉へ直訴をしに行ってしまった。」

元寇は当時の鎌倉政権の弱点を、意図せずとも見事に突いてしまった。日本側にとってこの戦は防衛戦だ。勝っても何も得られない。ただでさえ御家人たちの所領が細分化しているのだ。功労者に恩賞などばら撒くことは不可能である。

だが御家人たちは、命がけで戦ったのだ。恩賞をもらうのは当然だ。それができない幕府は、もはや存在意義をなくしかけている。

季長も、そんな幕府に不満を持つひとりだった。

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