肥後の五郎鎌倉へ行く、今に語り継がれる「蒙古襲来絵詞」の背景

馬と恩賞地を授かる

「五郎殿は運のいいお方じゃ。鎌倉の城九郎殿にお会いして、己の手柄を語ることができた。だが、いろいろと難儀したそうじゃ。幕府は五郎殿の手柄を認めたくないようでの……。」

季長は、鎌倉の恩賞奉行だった、安達泰盛に謁見する機会を得た。だが泰盛は当初、「先駆けの功績だけでは恩賞を与えることはできない」と告げた。

それに対して季長は、「恩賞が目当てではなく、自分の先駆けの功績が鎌倉に報告されていないのが不満だ。再度調査したうえで、もし自分が嘘をついているのであれば、この首を撥ねてほしい」と返したのだ。

これが凡人ならば、本来の目的である恩賞について話すところだ。だが季長は凡人ではない。まず自分の戦果を既成事実として持ち出すことによって、竹崎五郎季長という御家人の存在を無視できないようにしたのだ。肥後から鎌倉まで徒歩でやって来た健脚の持ち主は、同時に恐るべきネゴシエーターでもあったのだ。

その後、季長には恩賞地がもたらされただけでなく、ここまでの移動手段が徒歩であったことを見かねた泰盛から、なんと馬が贈られた。季長は自身の馬を、鎌倉までの旅の路銀にと売ってしまっていたのだ。

肥後の穀潰しは、この恩を生涯忘れなかった。

馬

source:https://pixta.jp/

 

世界唯一の「画像史料」

「五郎殿は弘安の戦でも手柄を立てた。京の公家衆は神風が吹いたから、蒙古を追い払うことができただの何だのぬかしておるが、五郎殿のような御家人が幾人もおられたから、今の日本の太平はあるのじゃ。城九郎殿からいただいた恩を忘れず、こうして絵巻にも残した。五郎殿は大層なお方じゃ」

『蒙古襲来絵詞』という画像史料は、日本人なら誰しもが見ているはずだ。モンゴル軍の攻撃を受けて逆立ちになった馬に、かろうじてしがみつく武士の絵だ。

この絵巻物の制作を監修した季長は、それにより世界史の上でも記録される人物になった。

モンゴル軍はユーラシアの各地を荒らし回ったが、意外にもそれを描いた画像史料は乏しい。そもそも遊牧民族は、絵というものを描いて記録に残すということはしなかったし、彼らと戦った周辺諸国の住人には「なぜあんな蛮族の絵なんか描かなきゃいけないんだ」という心情がある。

だからモンゴル軍を描いた絵があったとしても、相当に悪魔化されていて、とても正確な描写とは言えない。

モンゴル軍の姿格好や使った武器などを、絵師に命じて細かく描かせた人物は世界にただ一人、竹崎季長しかいなかったのだ。

ではなぜ、季長は『蒙古襲来絵詞』を制作するに至ったのか。

恩ある安達泰盛への懺悔の気持ちがあったのでは、と言われている。泰盛は弘安の役の4年後、政敵の平頼綱に奇襲され、一族共々自害して果てるという悲惨な最後を迎えた。いわゆる“霜月騒動”である。

この政変は鎌倉での出来事だ。遥か彼方の肥後に住まう御家人は、助太刀したくともできない。「城九郎殿が自害された」との報を聞いた季長は、まさに血の涙を飲んだに違いない。

『蒙古襲来絵詞』の制作は、かろうじて生き残った泰盛の一族残党が、政治的復権を果たした直後のことである。

絵巻物は現在は宮内庁の所有物で、三の丸尚蔵館に保管されている。我々現代人はこの世界的な文物を、何と無料で見学することができる。ぜひ一度、足を運んでみてはいかがだろうか。

 

【参考・画像】

※ Luciano Mortula / Shutterstock

※ Vincent St. Thomas / Shutterstock

※ photo traveler / PIXTA

【関連記事】

※ 世界チャンピオンの拳を守る日本皮革製グローブ・・・その裏に隠された皮革産業の歴史

※ 「16世紀のホラ吹き男」から学ぶ!? 売れっ子作家になる方法

※ コネチカット州から考える「アメリカの銃社会」銃規制ができない理由

※ ダイハツ・コペンが見せたコスパでは計れないオープンカーの価値

※ EV・PHVの補助金強化!次世代エコカーの普及が加速するか

1ページ目から読む