インドネシアには、“アジアのスタートアップの雄”と呼ばれる企業がある。ライドシェアサービス「Gojek」だ。
我々日本人にとって馴染みの薄い、いや、ほとんど縁のない「ライドシェア」だが、海外では様々な問題を抱えながらも大勢の人が利用している。タクシーではない一般車両を安価な移動手段として用いるこのサービスは、都市交通はおろか実体経済の在り方すらも変革してしまった。
インドネシアでは、もはやGojekのない生活はあり得ない。バスや鉄道と同様の社会インフラとして、現地の人々に受け入れられている。
“Uber不毛の地”といわれる東南アジア。Gojekは、なぜここまでインドネシアに浸透したのだろうか。
バイクタクシーをオンライン化
Gojekの設立は2010年。創業者は1984年生まれのナディム・マカリムという人物である。
ハーバード大学経営大学院でMBA取得に向けて学んでいたマカリムは、副業としてインドネシアのバイクタクシーをスマートフォンで呼び出せるサービスを始めた。インドネシアには日本の原付二種に該当する排気量のバイクを使った「Ojek」という交通手段が存在し、それをスマート化できないかとマカリムは思い立ったのだ。
インドネシアの首都ジャカルタでは、交通渋滞が社会問題と化している。数kmの道のりを進むために1時間もしくは2時間かけるのは日常的なことだ。しかしバイクタクシーなら、クルマの間をすり抜けるように道を走ることができる。
Ojekのライダーは街角で待機している。必要な時に彼らに声をかけ、値段交渉をしてバイクの後ろに跨る。決まった額の料金は存在しない。地元っ子であれば大抵は良心的な料金で済むが、外国人となると容赦はしない。相場の2倍、あるいは3倍の額を吹っかけてくる。
しかし今現在のインドネシアに、旧来型のOjekはほとんど残っていない。彼らは既にGojekか、それと競合するGrabの契約ライダーになった。Gojekの利用料金は距離毎に算出された数字で、当然ながら誰が利用しても同じ値段。決済は現金の他、Gojekの独自電子決済銘柄「Gopay」を利用することもできる。
そして、バイクに乗せて運べるものは何も人間だけではない。フードデリバリーや軽輸送、買い物代行にも対応する。特にフードデリバリーサービス「Gofood」は、ジャカルタやスラバヤ以外の地方都市の飲食店にも多大な恩恵を与えている。
ジャカルタにはインドネシア全土から出稼ぎ労働者がやって来る。彼らはそれぞれの故郷の味に飢えている。そのような「地元の味需要」を狙い、地方の飲食チェーン店もジャカルタへ進出する。その際に不可欠なのが、飲食物の配達をアウトソーシングできるGofoodである。
移動から食事まで、あらゆるニーズに応えるGojekのプラットフォームは、2015年にはその基礎が完成していた。これと同じ頃、日本にはまだUberも進出していなかったことも考慮しなければならない。
スマホの普及がGojekを「怪物」にした
インドネシアでスマホが広く普及し出したのも、2015年頃である。
それ以前、インドネシア市場に君臨していたスマホはBlackBarryだった。しかし100ドル前後で購入できる安価なAndoroid OSスマホが登場すると、高価で旧態依然とした設計のBB機種はあっけなく市場の王座から転落した。同時に、可処分所得に恵まれないワーキングクラスの人々も自分専用のスマホを所持することが当たり前になった。
インドネシアの国民平均年齢は30歳にもならない。国政選挙の際も、各候補者は若者の集まるイベント会場で清き一票を呼びかける。シルバー民主主義が問題として叫ばれている日本とは、そのあたりの事情がまったく異なる。若さに満ち満ちた新しもの好きの国民は、バイクタクシーをスマホで呼び出せるGojekというサービスが存在することにすぐ気づいた。
この時、Gojekは設立から5年を経ている。この間に集めたデータをスマホアプリの開発に反映させ、より使い勝手の良いサービスの構築に成功した。
さらに前述の電子決済銘柄Gopayが、Gojekに新しい可能性を加えた。バイクタクシーのライダーに10万ルピア札(インドネシアの最高額紙幣)を渡しても、怪訝な顔で断られてしまう。それに対応できる釣銭がないからだ。しかし電子決済なら、ライダーが釣銭用の小銭を用意する必要がなくなる。もちろん、Gopay対応店で買い物をすることもできる。日本のPayPayと似たような使い勝手だ。
釣銭が不足しているのは、店舗も同じである。それを解消するために最も手っ取り早いのは、あらゆる決済を電子化してしまうことだ。会計自体も明瞭になり、あらゆる商取引がフェアなものになっていく。
位置情報を手に入れたインドネシア国民
Gojekの登場により確立した事柄がもうひとつある。
それは「位置情報」という概念の定着だ。
昔の軍隊には「地図を読むのは将校の仕事」という言葉があった。インテリはともかく、一般庶民はあまり地図など読まない。道は感覚とモニュメントで覚えるものだ。
しかし、前述した通りジャカルタにはジャカルタっ子だけが住んでいるわけではない。インドネシア各地から出稼ぎ労働者が来ているのだ。それ故に、
「ガンダリアシティ(南ジャカルタのショッピングモール)まで」
とバイクタクシーのライダーに言ったら、
「そこはどこですか?」
と、返されてしまう可能性もある。彼らはジャカルタっ子ではなく、遥か彼方のアチェやパプアから出稼ぎに来ていることもある。
しかし、位置情報と連携するGojekのアプリを見れば、初めて行く道も難なく進むことが可能。たとえ名もない裏路地が目的地だったとしても、ピンポイントでそこに移動できるのだ。
これもスマホがなければ成立し得ない部分である。自分が今どこにいるのか、これからどこを目指すべきか。位置情報を手に入れることで、自分自身の行動を大幅に効率化できる事実にインドネシア国民は気づいたのだ。
それを突き詰めれば、慢性的な交通渋滞の解消につながる。リアルタイムの渋滞情報や確実な迂回路の提案などを、Google Mapと連携したGojekのアプリは表示してくれる。スマホを手に入れたインドネシア国民は、文字通り「日進月歩の道」を歩んでいる。
巨大島嶼国家をスマート化したGojek
「インドネシアは技術後進国」という認識は、既に古いものである。むしろある面では日本を凌駕している、という認識を持たなければアジアの今は理解できない。
インドネシアという国は、極めて広大な島嶼国家。しかしその巨大さを実感できないのは、ゲラルドゥス・メルカトルが発明した投影図法による世界地図のせいだ。これは赤道から離れている地域ほど、実際より大きく表示されてしまう。逆に言えば、赤道直下のインドネシアは不当に小さく見えるのだ。
そのような国に、2億5,000万もの人が住んでいる。だから、迅速な通信手段がなければ大きな地域間格差が発生してしまう。いや、既にそうなっている。道路整備もされておらず川にかかる橋すらも壊れているような農村では、ATMに補充する現金どころではない。即ち、インドネシアに均質かつ公平な貨幣経済を浸透させるためにはGojekのような「スマホを使ったスマートサービス」は必要不可欠なのだ。
このように、国内で問題になっていた通信手段や交通事情、金融事情、様々な不合理を一気に解消してしまうオンラインサービス、それがGojekなのである。
そしてこれは言い換えれば、インドネシアのスマート化は必要に迫られた必然とも言える。しかし動機がどうあろうと、この面においてインドネシアが日本よりも3年は進んでいることに違いはない。そして「社会のスマート化」は大都市圏よりもむしろ地方都市や農村部に必要不可欠な要素だということも、インドネシア人はコロナ前から知っている。
巨大化したスマートサービスを擁したアジア諸国の台頭が、世界をどう変革するのか。そして日本はそこから何を学ぶのか。新型コロナの猛威が過ぎ去ろうとする中、本当の勝負が始まろうとしている。
【参考】
※Gojek
※Para Penjaga Amanah – YouTube
※Cerita Partner GoFood: Mie Balap – YouTube
※Toto Santiko Budi/Shutterstock