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日本人の「インテリジェンス」のひな型は“アップデート”すべき

みなさんは“知識人”と聞いてどんなイメージを持つでしょうか。最先端の専門的な知識を持っている人たち、とりわけ欧米の事例をキャッチアップしている人々……ぼんやりとそんなイメージがあるのではないでしょうか。そんな漠然とした“インテリジェンス”のイメージには、歴史が影響しているかもしれません。今回は脳科学者の茂木健一郎氏が、日本の近代化以降の歴史を振り返りながら、日本人がもつインテリジェンスのひな型について語っています。


 ここで、日本が近代においてたどってきた道を振り返り、その中での「インテリジェンス」のあり方について考えてみよう。

 インテリジェンスは、常に、ある立場、身体性とともにあるものである。一般的な意味でインテリジェンスを論じることももちろん大切だが、個々の国、地域、文化におけるインテリジェンスのあり方を論じることはより本質的、何よりも実践的である。

 明治維新に始まる日本の近代化において、圧倒的に重要だったのは、西欧近代に追いつき、追い越せということだった。当時の世界が、列強による植民地支配の秩序の下にあり、その中で自分たちの場所を確保することが生存や発展のために大切だったことを考えれば、それは当然のことであった。

 そんな中で、日本は、「グレート・キャッチアップ」のゲームをプレイした。「尊皇攘夷」の旗印の下、外国の影響を排除するという情熱から始まった変革は、やがて、外国の文物を大胆に吸収するというゲームへと変化していった。文化を輸入することが、列強に並ぶために必要な方策であると確信されてからの日本人の動きは迅速で徹底していた。

 薩摩藩がイギリス軍と戦火を交えた薩英戦争(1863年)、長州藩がイギリス、フランス、オランダ、アメリカと戦った下関戦争(1863年、1864年)などの経験を通して、列強の実力を知った維新の志士たちは、「攘夷」を捨て、むしろ「彼ら」から学ぶという方向に舵を切っていった。

 明治維新を成功させた日本は西洋列強に追いつくためにありとあらゆる手段を尽くした。その「キャッチアップ」のゲームの中で、いわゆる「知識人」の原型も、そして「インテリジェンス」とは何かという理解も形成されていった。

 長きに渡って、日本において「知識人」とは、欧米の「進んだ」知識や技術をいち早く理解し、それを紹介する啓蒙のポジションにいる人たちのことだった。大学は、特に文系の学問において、いわゆる「輸入学問」としての性格を強めていった。

 もちろん、それは単なる受け身のプロセスではなかった。「科学」、「思想」、「概念」、「社会」、「哲学」といった、いわゆる「和製漢語」が生み出されて、日本語で学問を習得し、研究していく体制がつくられていった。列強の植民地となった多くの国、地域で、学問をするためには英語やフランス語、スペイン語といった支配者の言語を習得することが必須だったのに対して、日本では、当初こそ外国語を通して学問を学んだものの、急速に、日本語ですべての学問を習得し研究することができる状況が生み出されていった。

 西欧から日本に最新の知識や技術を輸入することが大きなミッションであった「文明の配電盤」としての東京帝国大学において、英文学の講義がラフカディオ・ハーン(小泉八雲)から夏目漱石にバトンタッチされた事象に、「外国語を通した学問」から「日本語による学問」という日本近代の知識人、インテリジェンスのひな型が見られる。

 もっとも、このような文明の「キャッチアップ」のゲームには利点とともに当然限界もあった。そのことを鋭く見抜いていた一人が、夏目漱石自身だった。漱石は、英文学の知見を日本に導入するための先兵として文部省により英国に派遣された当時の国家エリートの一人だった。しかし、その漱石自身が、明治維新という偉大な成功の物語の背後にある構造的な限界に敏感であった。

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※LightField Studios/Shutterstock