スズキの『ジムニー』は極めて特異な車両である。軽自動車という、日本にしか存在しない車両区分の4WD車であり、その悪路走破性を生かして山間部や豪雪地域でも作業車として活用されている。
それでいて一般ユーザーからの人気も高く、現行ジムニーは予約から1年ほど待たないと納車されない状態が続いている。世界的な半導体不足の問題が、それに拍車をかけているという。
ジムニーは海外でも大人気だ。小型のオフロード車として、世界各地のアウトドア愛好家がこのクルマを山や森林で乗り回している。
ところがこのジムニー、当初は銀行からの融資を得られなかった「将来性のないクルマ」だったことはあまり知られていない。それゆえに、ジムニーの歴史を紐解けば、ビジネスシーンでは時として大逆転が発生するということを心底思い知らされる。今回は不遇の状況から名車に昇格したジムニーの開発史について解説していきたい。
中小メーカーが開発した「軽4WD車」

かつて日本に『ホープ自動車』というメーカーが存在した。このホープは、戦後の復興期にオート三輪を製造していた。
太平洋戦争で敗戦し、主要都市がことごとく焼かれてしまった日本を立て直したのはオート三輪である。戦時中に徴兵されていた男性たちが復員し、その直後にベビーブームが発生する。すると様々な消費財の需要が急増する。それを市場に供給しなければならないのだが、終戦間もない日本で細かい物資輸送の仕事を担っていたのはオート三輪だった。ゆえに、50年代頃まではオート三輪メーカーが複数存在した。あのマツダも、戦後復興期はオート三輪を製造していた。
しかし、ホープがマツダと違うのは、その後の高度経済成長期の波に乗って大手自動車メーカーに変貌する機会を逃してしまったということだ。 そんなホープが起死回生の意図で開発したのが、ホープスターON型という僅か360ccの小型車である。このホープスターON型は、なんと4輪駆動車だった。40度の傾斜をも駆け上がることができる、日本の地形を考慮した設計だ。オンロードではレバー操作のみで後輪駆動に切り替えて走行することも可能である。
エンジンは三菱自動車から供給された21馬力2ストローク。そのような背景もあり、ホープはこのクルマの製造権を三菱に渡すことを考えていた。だが、結果的にそうならなかったのは三菱の態度が冷たかったからだろう。銀行からの融資も得られなかった。 ホープは資力に富んでいるとはとても言えないメーカー。たとえこのクルマを生産するとしても、月産数十台が限度だ。
そこでホープの社長小野定良は、顔見知りの鈴木修という人物に声をかけた。 鈴木修は、スズキの常務である。のちに同社の社長、そして会長にまで上り詰める人物だ。
社内の反対意見を押し切る

スズキがホープスターON型の製造権を得てからそれを生産するのに、社内からは反対意見があった。 ひと言で言えば「売れない」ということだ。
オフロードを走破できる性能は認めるが、そのようなニッチな特徴にカネを出す人間が果たして何人いるのか。スズキの営業セクションは、年間300台のセールスがせいぜいと予測を立てた。そしてホープからスズキへのホープスターON型の製造権は、もちろんタダではない。1,200万円もかかっている。それを回収できる見込みなどあるのか?
そのような反対を鈴木は押し切り、ジムニーと名づけられた新車種は発売に至った。1970年のことだ。
この時代の1,200万円は、決して安いものではない。70年の巨人軍長嶋茂雄の年俸は4,560万円である。しかしこれは巷に絶大な影響力のある長嶋だからこその額であり、同年の巨人軍では主力投手ですら1,000万円ももらっていなかったはずだ。つまりスズキは、セ・リーグのスタメン選手を引き抜けるだけの買い物をしてしまったということである。
ところが、蓋を開けてみればジムニーLJ10型は売れに売れた。発売2ヶ月で月産(年産ではない)150台を達成し、前述の1,200万円も3年で回収した。ちなみに、この当時のジムニーの価格は48万2,000円だった。
サハラ砂漠を縦断した日
1982年、日本人ライダーの堀ひろ子と今里峰子が「サハラ砂漠縦断ツーリング」という計画を実行する。
これはアルジェリアの首都アルジェから南下して途中でサハラ砂漠を渡り、最終的にはコートジボワールのアビジャンを目指すというもの。文章にすれば極めて簡単だが、約5,000kmにも及ぶ距離をバイクで渡航するのだ。その最中のサハラ砂漠は約1,500km。民間向けのGPSサービスなどない時代、このようなツーリングは一歩間違えれば遭難の危険性すらあった。
2人の女性ライダーの壮大な挑戦を支えたのが、伴走車として水や食料や燃料を載せて過積載状態になったジムニーである。堀がスズキに掛け合って手配した、国外輸出仕様の1,000cc車種だ。 このジムニーは、見事サハラ砂漠を渡り切った。灼熱と砂塵と過積載という三重のバッドコンディションを乗り越えてしまった、ということだ。
伴走車ではあったが、結果的に日本国外においてもその走破性が証明された。「砂漠を走行できる」ということは、そこに住む人々にもタッチできるということだ。
山間部を走るクルマとして

翻って、我々の国・日本は山岳国だ。 東京23区内にいては想像もつかないほどの急勾配の只中に民家がある、ということも地方では珍しくない。
そのような地域の人々にとって、郵便や水道、電力供給など“ユニバーサルサービス”は極めて重大な問題である。山間部での郵便配達は平野部でのそれと同じよう具合にはいかない。スーパーカブでは登り切れないほどの坂を越えていかなければならないのだ。だからこそ、ジムニーは郵便車としても活躍している。 いや、それだけではない。消防団の使う車両として、土砂災害警戒を呼び掛ける自治体の広報車として、道路の安全を監視するJAFの車両として、ジムニーは今日も日本各地で大活躍している。
かつては「売れない」とサジを投げられていたクルマが、51年の間に4度のメジャーチェンジを経ながら、今この瞬間も市民生活を支える土台として機能しているのだ。
2021年の今、自動車業界は「EV化」という大きな波を迎えようとしている。が、それを考慮しつつも「悪路走破性」は絶対に外してはならない要素である。どのような地形でも、どのような悪路でも悠々と乗り越えられる性能があるからこそ成り立っている人々の暮らしが、そこに存在する。
「売れない」と言われたジムニーが、なぜ売れたのか。自動車は物流や連絡、生活インフラの構築に欠かせないものだ。ジムニーの開発史を見れば改めてそのことを認識せざるを得ない。
【画像・参考】
※ ジムニーの歴史 – スズキ公式サイト
※『スズキ・ジムニー48年と新しい時代』 – マガジンボックス
※『ニューモデル速報 歴代シリーズ 新型/歴代ジムニーのすべて』 – 三栄書房
※ 『サハラとわたしとオートバイ』堀ひろ子著 – 大和書房・講談社文庫
※Bubushonok・Suvorov_Alex・T.iLiev・Daniliuc Victor/Shutterstock