「未来は一人一人の中にある。何かを変える力は、誰もが持っている。」
インドネシア・バリ島にあるグリーンスクールの卒業記念スピーチで、ジェーン・グドールは力強くこう述べた。
自然への畏怖と不屈の精神を持つこの一人の”老女”が世界に与えるインパクトは計り知れない。彼女のメッセージは聞く者の心を揺さぶり、その情熱は聞く者の手足の先端まで伝播する。
それはまるで、大地に隈なく根を張り、広い空へ芽吹かせるために必要な、水のように、そして太陽の光のように。
ジェーンの軌跡
ジェーン・グドール博士(Dr. Jane Goodall:1934年英国生まれ)は、それまで人類固有の行為だと考えられてきた”道具を使うこと”をチンパンジーの世界において発見したことにより、その名を歴史に遺した。また、彼らの個性や肉食の習慣など、それまで否定されてきたことも次々と発見した。
自然環境保護活動家としても世界各地を飛び回り、国連平和大使にも任命される。またエリザベス女王よりDBE(大英帝国勲章第二位)を授与される。しかし、彼女の人生は決して平坦ではなく、それは闘いの連続だった。
幼いころから読書と夢想が好きで、いつかアフリカの地へ旅立とうと思い描いていた少女ジェーンは、大学で生物学などの専門知識を学ぶことなく、ついにその夢の地へ降り立つ。
ケニヤにて偶然にも人類学の権威であるリーキー博士と出会い、秘書として採用されたことによりジェーンの人生は一転。博士の薦めでタンザニアへ渡りチンパンジー研究を独学で始めた彼女は、先の発見を成し遂げた。
彼女がその時に行った観察手法は、現在の霊長類研究では”当然”のこととなっている。だが当時の学術界では、”無学”の”女性”がそれまでの通説を覆す研究成果を発表することなど許されることではなかった。激しいバッシングと誹謗中傷。思いもよらぬ”権威”との闘い。
だが、彼女を支援する人々が基金を作り、ケンブリッジ大学にてPh.Dを取得。当時700年を超える長い大学の歴史の中でも、わずか8人目の”学士号を持たぬ博士号”だった。
roots & shoots
チンパンジーの研究を続けるうちに、それらを取り巻く自然環境の重要さに目覚め、研究者から活動家へと転身。自らが提唱した”roots & shoots(根と芽)”運動を世界中の人々へ広める伝道師となった。
「大地に根を張り、様々な人々がつながり、空へ、そして未来へと芽を伸ばそう。一つ一つの芽は小さいかもしれないけれど、硬いコンクリートや岩を砕くのも、また一つの小さな芽なのだから。」
80年の人生において初となるバリ島訪問で、ジェーンはグリーンスクールに4日間滞在した。3歳児から18歳の高校生、そして学校スタッフや保護者たちも心から彼女を歓迎。ルーツ&シューツのプログラムを取り入れている地元の学校の生徒たちも招かれ、創設者の前でプレゼンするという栄誉を得た。
彼女は存在は大きな触媒となり、人と人の間に様々な化学反応を生み出す。物静かな佇まいの中にも秘められる情熱は、個々の内にあるそれと共鳴し合う。卒業式のスピーチでは、自然の深淵さと一人の人間が持つ可能性について、静かに、しかし大きな熱量で語った。
その場を共有した人々へ、その人々を包み込むバリの大自然へ、そして、それら全てに待ち受ける未来へ、願いを込めて。
未来への芽
息子がグリーンスクールへ入学した際、私はジェーン・グドール博士の手により植えられた木を、この目で確かめることを密かな楽しみとしていた。
しかし、幼稚舎の隣で見つけたその”ジェーンの木”は、私の期待を見事に裏切った。葉は無残にも茶色く枯れ、数枚を残して地に落ちていたのだ。
植樹というのは難しいものだ。”植樹保険”というものがあるくらいで、人工的に植えられた木は少なくない割合が枯れてしまう。痛々しい姿の”ジェーンの木”を眺めながら私は、東京の自宅の近所の公園に今も残る”ある植樹跡”を思い出していた。
とある皇族の手によって植樹された木が根付かず枯れてしまい、ついには朽ちて果てて跡形もなくなってしまったのだが、その周りにめぐらされた囲いと記念碑だけが、何事もなかったかのようにそのまま虚しく残されている”植樹跡”地。
この木もそんな風になってしまうのだろうか。何か”見てはいけない”ものを見てしまったような居心地の悪さを私は感じた。
だが、それから一か月ほどが過ぎた頃、ジェーンが子供たちへ残した”shoots”を私は目の当たりにすることになる。
その新しい芽は、枯れたように思えた枝から力強く真っ直ぐに空へと伸びていた。きっと大地の中では”roots”も力強く伸びているに違いない。
「どんな権威や圧力にも屈せず、非難中傷にも耐え、過酷な環境にも負けず、自身の信念を貫き通すこと」
芽を眺め、その根を想像しながら、ジェーンが子供たちへ力強く語っていたそんな言葉を、ふと思い出した。
子供たちへ贈る言葉としてはいささか厳しいものかもしれない。しかし、そんなジェーンの静かだが熱い生きざまを深く胸に刻んだグリーンスクールの子供たちは、こんな歌を彼女に贈った。
ありがとう、グドール博士
僕らはまだ子供で 体は小さいけど
びっくりするくらい大きなことができるんだ
世界が僕らを待っている・・・