蹂躙され続けた歴史
インドネシアの東部、オーストラリアに程近い小さな島にある東ティモール。四国程度の面積の国土に120万人が住んでいる。450年に及ぶポルトガルによる統治を経て1975年に”独立”を宣言。しかしそれを認めぬインドネシアが侵攻、激しい戦争状態に突入した。
国連はこの侵攻を非難したが、反共政策のためインドネシアを軍事支援するアメリカをはじめとする西側諸国は黙認。圧倒的な軍事力を誇るインドネシア軍を相手に、東ティモールの人々はわずかな武器で長いゲリラ戦を展開した。
この戦いや、その後の内乱時代も合わせると、国民の三割が死亡するという壮絶なる悪夢を体験。拉致、拷問、リンチも横行し、多くの人々がトラウマを抱え、その精神的な深い傷は子供や女性への虐待という形で社会に蔓延し始める。
ベラの兄弟も二人殺害され、父親もイ軍の拷問により精神を破壊される。この父親はベラの母以外にも多くの女性を身体的・性的に虐待、生まれてきた子供たちへも激しい虐待を与えた。幼いベラはわずか5ドルでイ軍に売られ、母親が命がけで救出。その後も虐待されつづけた母と兄弟たちは、命辛々父の元を逃げた。
イ軍の蛮行は子供たちへも向けられ、ついに民族浄化作戦をも決行。十代前半だったベラは、学校へ押し入ったイ軍により避妊薬の強制投与を受けた。
闘争の士ベラ
成長したベラは祖国解放運動に身を投じる。そして運命の日1991年11月12日が訪れた。この日ベラは、多くの市民や海外からやって来たジャーナリストたちと共に、仲間の死を悼む集会を行っていた。しかしそれが独立を求めるデモと化す。そこへインドネシア軍が無差別発砲。約400人が犠牲になった”サンタクルス事件”である。
一般市民や外国人まで虐殺するイ軍と沈黙する国際世論に、ベラは東ティモールからの脱出を決意。国外で東ティモールの現実を直接訴え、国際世論を喚起しようと決心した。
危険を顧みずインドネシア併合賛成派に入り込み、イ軍の信頼を得るため兵士たちからの想像を絶する数々の凌辱に耐えた。晴れてイ軍に入隊した後も模範兵として振る舞い続けた。そしてついにチャンスが巡ってくる。カナダとインドネシア間で青少年文化交流プログラムが持ち上がったのだ。
国際世論に東ティモール政策の順調ぶりをアピールしたいインドネシアは、”模範生”ベラを東ティモール代表に選出。カナダに渡ったベラは、到着するやいなや政治亡命を申請する。解放戦線の臨時政府に広報官として任命され、以後6年間各地を回り、東ティモールの惨状を世界に訴え続けた。
国連主導の元、1999年に国民投票が実施され独立が決定。ベラは帰国し、新しい国創りに国連機関職員として参加する。しかし、長年の戦乱で国民が受けた心の傷は予想以上に深く、ベラは心理学・女性学を専門的に学ぶためハワイ大学へ留学。再び帰国した後は、大統領補佐官として働く傍ら、傷ついた女性や子供たちの支援を始めた。