SDGsは17の目標で構成されている。
このうちの「1.貧困をなくそう」「8.働きがいも経済成長も」「9.産業と技術革新の基盤をつくろう」「11.住み続けられるまちづくりを」は、実はたったひとつの概念に統一することができる。それは「盤石な地場産業の確立」だ。
その地域に産業があるのとないのとでは、住みやすさに大きな差が出てくる。若者はなぜ学校を卒業したら都市部へ移住してしまうのか。それは地元よりも大きく堅調な産業が都市部にあるからだ。逆に言えば、地元に確実な産業が存在すれば人口流出も防ぐことができる。
何もない「不毛の地」でも産業を創設すれば、そこに人が集まるはずだ。もちろんそれは文章で書くほど簡単なことではないが、まったく実例がないわけでもない。19世紀後半の日本で達成されたことがあった。しかもその産業は、1世紀半経った今でもその地域の経済基盤としてしっかり機能している。
今回は、そんな持続可能な開発を1879年の静岡で成し遂げた、武士たちの奮闘を紹介する。今の私たちにとっても、学ぶべきことがあるかもしれない。
失業武士を帰農させた勝海舟
明治維新は、徳川幕府に仕えていた武士たちに大きな動揺を与える出来事であった。
それまで幕府から禄をもらって生活していた旗本や御家人は、明治維新を境に文字通り困窮した。徳川宗家は駿府(現在の静岡県静岡市)に移り、幕臣たちもそれに従った。が、江戸無血開城後の徳川にもはや臣下を養う余裕などあるはずもない。
「日本の夜明け」という華やかな文言と共に語られる明治維新は、失業者を大量発生させた出来事でもあるということを我々現代人は忘れてはならない。そして失業武士の一部は、そのまま明治政府に反発する不平士族に合流した。
しかし、現在の静岡県牧之原市に入植した旧幕臣は最後まで銃を取らなかった。
江戸無血開城の立役者である勝海舟と山岡鉄舟は、自分たちの決断により多くの失業武士が出ることを理解していた。たとえ彼らが徳川宗家に従って駿府に移住したとしても、食い扶持などどこにもない。実際に駿府には江戸由来の旗本と御家人、そしてその家族が路頭に迷っていた。
「ならば、茶を栽培させるのはどうか?」
そう思いついたのは勝海舟である。
茶は海外需要が見込める数少ない商業作物。特にイギリスとアメリカが、世界各国から茶を買い付けて高速船で祖国に輸送していた。もしも首尾よく茶を栽培できれば、米英に対してそれを売ってやることができる。維新間もない日本人にとっては貴重な外貨収入にもなる。
茶畑を耕すのは、もちろん失業武士だ。つまり彼らを帰農させ、海外需要のある茶を生産させた上で完全自立を促す。この計画が成功すれば、武士たちは権力者からの禄に頼らなくても生きていける。新産業の創設は結果的に国内の治安維持につながることを、勝はよく心得ていた。
そして幸いにも、旧江戸幕府は金谷原(牧之原)に広大な直轄領を持っていた。
ここに約250戸からなる「金谷原開墾方」を入植させ、茶農園を作らせるのだ。
将軍護衛部隊が牧之原に入植

中條景昭は江戸ではよく知られた剣客だった。
その腕を見込まれ、中條は徳川慶喜を護衛する「精鋭隊」の頭に任命された。これは西洋風に言えば近衛部隊である。慶喜に危機が迫ったら、精鋭隊士が命懸けで彼を防衛するのだ。
しかし幕府の命令に反発してまで明治新政府軍と一戦を交えた彰義隊とは違い、精鋭隊はあくまで慶喜に忠実だった。ただの一太刀も新政府軍に斬りかからなかった、ということだ。故にこの部隊の存在が日本史関連の書籍に載ることはあまりない。
それでも、彼らの奮闘はその後に発揮された。
駿府移住後の徳川宗家は新たに「静岡藩」を立藩する。この静岡藩が精鋭隊に、牧之原入植を促したのだ。これは強制ではなく志願者を募る形だったが、それでも精鋭隊の殆どの隊士と駿府で困窮していた旧幕臣が挙手した。
彼らは金谷原開墾方として牧之原台地の開拓に従事することになったが、それは決して楽な道ではない。

そもそも牧之原は、農業用水の少ない土地である。保水力に乏しい土質のため、稲作には不向き。そのような場所を農地らしくするのが、金谷原開墾方の最初の仕事だった。
ここで本当に茶が育つのか。成功する保証は一切ない。しかし、失敗すれば空腹に苛まれる失業武士に逆戻りである。
蓬莱橋から世界へ
海外のインターネットオークションで、時折「Vintage Japanese tea box」と銘打たれたものが出品される。
これは100年以上前の木製の茶箱だ。数十kg単位の茶葉をこの箱に収め、日本から世界各国へ輸出されていた。段ボールというものが発明される以前、茶や果物を入れる専用の木箱が存在したのだ。
牧之原台地で旧幕臣たちが生産した茶も、例に漏れず茶箱に詰められて清水港まで運ばれた。しかしその間に、大井川という名の障害物がある。当初はこの大井川に舟を浮かべて茶箱を対岸に運んでいたが、吹けば飛ぶようなボートのピストン輸送はあまりに効率が悪かった。そこで茶農家がカネを出し合い、大井川に橋を建設することにした。
それが「世界最長の木造歩道橋」としてギネスブックにも登録された、蓬莱橋である。完成は1879(明治12)年。荒野だった牧之原が、緑豊かな茶農園地帯として自立した瞬間だ。

ただし、その代償は決して小さくなかった。先の見えない重労働に耐えかね、農業を諦める金谷原開墾方もいた。いや、むしろ茶畑を売ってしまった旧幕臣のほうが多かった。1880年代には金谷原開墾方は当初の半分以下にまで減り、その後も茶農家から他の職業へ鞍替えする世帯が相次いだ。

もっとも、何もない土地にある程度大きな畑を作ったら他人に売るという行為は特段珍しいものでもない。西部開拓時代のアメリカの農民はまさにそうだった。畑を売って次の土地へ幌馬車に乗って移住するのもよし、逆に畑を買って安定した収入を見込むのもよし。封建主義社会ではあり得なかった「土地を金銭で売買する」という行為は、結果として農耕地を広くする。
現に21世紀の牧之原は、日本有数の茶の生産地として知られている。茶畑を放棄せずに粘り強く取り組んだ旧幕臣たちのおかげで、今の茶畑が広がる牧之原台地の姿がある。

金谷原開墾方の危機「苟美館事件」
たった一言「盤石な地場産業の確立」と書くのは、極めて簡単だ。
しかし壮大なプロジェクトとは、コンセプトと技術と人員がいれば即座に実行できるというものでもない。少なくとも最初の数年はまったく芽が出ないもの、と考えるのがより健康的だろう。そしてその間、プロジェクトにかかわる人々に対して意外な困難が襲いかかるものだ。
金谷原開墾方も、一時は空中分解の危機すらあった。実際に蓬莱橋が完成する直前の1878(明治11)年、苟美館(こうみかん)事件という非常事態が発生している。
明治政府は失業武士対策として、家禄奉還金というものを支給していた。要は補助金だが、これはもちろん金谷原開墾方の面々にも与えられた。
せっかくの貴重な資金である。有効活用しない手はない。そのような経緯で、現代の信用金庫のような金融機関が牧之原に設立された。苟美館である。
しかし、それを運営するのは武士だった人々だ。彼らは会計管理にはまったく慣れていない。
そのうちに巨額の使途不明金が発覚する。それだけではない。苟美館で出納を担当していた人物が、金庫のカネを持ち逃げするということまで起こってしまったのだ。あまりに杜撰な苟美館の運営は、牧之原の茶農家の怒りを買った。
「巨大プロジェクトには会計が伴う」という当たり前の問題で、情熱と正義感と行動力でそのプロジェクトを始めたはいいが、経理という地道かつ最も重大な仕事を疎かにしたため、プロジェクト自体が頓挫しそうな事態に陥った。
この苟美館事件の収束に一肌脱いだのも、勝海舟と山岡鉄舟である。2人は内務卿だった大久保利通に掛け合い、明治政府が牧之原に追加の資金を出すという形で問題解決を図った。同時に苟美館は解散し、出資金を各農家に払い戻す措置も実行された。冷酷な執政で不平士族の反乱を招いたと評価されがちの大久保だが、経済的自立を目指す士族に対しては惜しみない支援を行っていたことも忘れてはならない。
武士の問題を解決したのも、また武士であった。
武装蜂起しなかった旧幕臣
このように静岡においても大活躍した勝海舟の銅像が現在の蓬莱橋の付近に建てられたのは、ほんの3年前のことだ。
彼の発案がなければ、牧之原は今も不毛の荒野だった可能性がある。

牧之原に入植した旧幕臣たちが、明治政府に対して武装蜂起することは一切なかった。人間は、明確な目標を持ってさえいれば過激なことは思案しなくなる。苟美館事件の解決に骨を折ってくれた大久保内務卿の命を狙うことも、もちろんなかった。
その光景は、まさに「1879年のSDGs」である。
牧之原に定着した茶の生産が産業基盤となったことで「9.産業と技術革新の基盤をつくろう」は達成しており、その産業基盤ができたおかげで雇用が生まれ、失業武士を減らすという「1.貧困をなくそう」につながる。そして刀を手放した武士が反乱を起こさなかったほどの新しい働きがいを生み出した、かつ牧之原の経済活性化にもつながったという意味で「8.働きがいも経済成長も」、さらに牧之原が現在も緑豊かな住みよい土地であることから「11.住み続けられるまちづくりを」も達成したといえるのではないだろうか。
無論、勝も山岡も中條もSDGsなどという未来の概念を想定していたわけではない。持続可能の産業を確立しなければ誰かが死んでしまう、という危機感が牧之原を茶農園に変えたのだ。
地方における地場産業の確立。これこそが、SDGsの達成に必要なのではないだろうか。
【参考】
※大石貞男著作集2 静岡県茶産地史(大石貞男 農山漁村文化協会)
※誠忠の茶園:牧之原の荒地に挑んだ幕臣たち 明治維新によって刀を鍬に替えた幕府精鋭隊(太田精一 22世紀アート)
※画像はすべて著者撮影